いつの間にか取り壊しが決まっている。いつものことでもある。設計した内田祥三はそもそも東大構内の大方の建築物を設計した張本人でもある。東大にはもう少し対応の仕方があったのではないかと思ってしまう。まるでお腹が減ったタコが自分の足を食べ始めたかのような感覚を抱きます。
取り壊しの決まった『東京大学三崎臨海実験所 旧本館 S11(1936)』 F6 鉛筆 水彩絵の具
アールデコ風の外観とスクラッチタイル。内田祥三は秀作を多く残した反面、悪名高き『木造モルタル』の発案者でもある。(木造家屋の外壁をモルタルで覆うスタイル)関東大震災以降、建築物の耐火性を改善しようと試みた。性能面とは裏腹にたった数十年の経年変化で木造モルタルは従来の日本家屋とは比較し難い容態を呈することになる。景観と建築物の関係性について多くの材料を提示した建築家とも言える。
『東京大学三崎臨海実験所 旧実験棟 M39頃(1906)』 F6 鉛筆 水彩絵の具
実は今回のニュースに先駆けて既に取り壊されたしまった建物もある。経緯は不明だが施設内で倉庫のような役割をしていた(と記憶している)東京大学三崎臨海実験所 旧実験棟。ここ数年でいつの間にかひっそりと取り壊されていた。明治期の建築様式を色濃く残しているイギリス風の下見板を貼った建物だった。海風の強いこの地域において明治期の建物だというだけで希少であり、木造という性質と扱いについては本館等よりも危惧していた建物だっただけに、既に失くなっていたことを目の当たりにし、愕然とした。一国立大学の一存で壊して良いような物ではないように思えて仕方ない。昨今、東大での絵画廃棄問題等、国の最高学府の元で起こっているとはとても思えない現状にうつります。
そもそもあの土地は三浦一族の居城、新井城の本丸があった場所にあたる。三浦一族の遺構である千駄やぐらや本丸跡地は現在、東大施設内部にあり、おいそれと立ち入れない。当該の建物を含めた荒井浜一帯は、三浦一族の文化的資源、水族館としての歴史、第二次大戦を伝える遺構としてなど、様々な時代の背景を背負い土地の文化の象徴として残されていくべき文化施設だと思っていた。そのような背景を考慮してもなお昨今の縮小均衡していく日本の財政面の負担と天秤にかけた結果が今回お達しなのかもしれないと思うと、のっぴきならない状況に閉口してしまいそうになる。
土地の記憶を色濃く残した建築物はその土地を表象していく可能性のあるものであり、それらが失われるということは土地の文化も希薄になります。そしてそれらが亡くなった頃には全国にある団塊世代御用達のニュータウンがその言葉の定着よりも早く廃れていき次世代の担い手のいなくなる現象のように、『語られない土地』が出来上がり、街としてのステータスも失なわれていきます。一旦、失われてしまった文化は真新しいパネル工法の家やプレハブ小屋をいくら建ててももう戻ってきません。
打開策として
近年の試みとして大学でも、クラウドファンディングを行う時代になりました。昨今、国宝である『三徳山三佛寺』でさえクラウドファンディングを活用している。実際に多くの支援者が集まっているようです。
(参考URLhttps://readyfor.jp/projects/mitokusan-nageiredo)
まずはどうすれば残せるのか、可能性は探せばいくらでも残っているように思えて仕方ありません。旧態然とした使い勝手の悪い建物を建て替えたいという発想もわからなくもないですが、まずは保存できるかどうかという問いに対して真摯に向き合ってから次の課題に取り組んでいただければと思います。皆さんの街には江戸時代までとは言わないまでも、明治時代の建物が一体いくつ残っていますでしょうか?。大正時代だってあやしいところです。日本はそれほど建築物の残らない国です。
1000年とは言わないまでも、100年、200年前の建物や文化財が残っていれば、それを手掛かりにその街は歴史を刻みます。書物や写真でしか語られない歴史とは訳が違います。大げさですが何故、第二次大戦中アメリカは京都に爆弾を落とさなかったのでしょうか?何故ナチスはパリを焼き払わなかったのでしょうか?そこに文化が目の見える形で残っているというのはとても尊いもののように思えます。
内田祥三の設計した東大構内でさえも、ファザードだけ踏襲され居住まいの悪い新建築が跋扈しています。今の東大構内をよしとする美意識の中では奇跡的に状態良く残っている、東京大学三崎臨海実験所の価値を推し量ることもできないのかもしれないと思いつつも、同時に多くの改修と保全を行ってきたことも想像に難くないだけに、残念で仕方ない。
『東京大学三崎臨海実験所 旧本館ディティール S11(1936)』 F6 鉛筆
スクラッチタイルは関東大震災で煉瓦建築が大打撃を受ける時代を前後してフランク・ロイド・ライトなどの流行を機に普及した。スクラッチタイルは時が経つと剥落してしまうケースもあるが、当該の建物の保存状態は良いように思えます。
研究施設が建つ荒井浜の景観 F4 水彩絵の具
『神奈川県三浦市 油壺験潮場 M27(1895)』 F4 水彩絵の具
近隣にある代表的な建築物として。西洋建築由来のペディメントと瓦屋根、焼成温度高めの焼き過ぎ煉瓦と、コンパクトながら近代建築好きにとっては十分すぎる見所の多い建物。油壺界隈はとにかく環境も含め近代建築の良作が豊富に残っていた。それらの価値をどうすれば伝わるのか?と考えているうちに一つまた一つと文化財が失われている。
『日本水準原点 M23(1980) 東京都千代田区永田町1丁目』 F6 鉛筆
油壺験潮場と対をなす建物。国会議事堂から程ない場所に建つ。日本にはそもそもクラシシズムに則った建物があまり残っていない。良作も少ないように思う。ここまで堂々とクラシシズムを体現した建物を建てられたのは西洋建築の享受に積極的だった明治という時代ゆえ。油壺験潮場とセットで残っているというのが文化的に重要と思える。