四宮義俊 / SHINOMIYA YOSHITOSHI

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『いづれにしても存在はしません』その4

欠損していくオリジナルについて

前回提示した検証方法

①どんなに加筆や修理をしても、法隆寺や非母観音が造られたり描かれたりした意義は変わらない。例えそれらを構成する要素が変わったとしても法隆寺が建立された目的や非母観音が描かれた動機には影響しない。よってそれは同じものだ。

②どんなに、修復や修理をしても前提となる設計者が描いたマッスや構図が変わらなければ同じものといえる。

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今回は日本橋を例に考えてみます。

この橋は江戸時代以降でも十数回架け替えられています。
木造だったり、石造だったりして、同一の形状を維持していません。

検証方法でいう②は該当しそうにありません。(漠然とした橋ってことでは同じか?)
検証方法①に関すると構成要素は変わってしまうけど、日本橋の機能そのものは変わってないように思えます。

む しろ日本橋にとってのアイデンティティはやはり日本橋川にかかっているということでしょう。この地点、座標にあるかぎり日本橋が『本物』か『偽物』か、と いう議論は当てはまらないでしょう。前提に○代目日本橋と比べると、現在のデザインはどうか?といった話ぐらいはできるでしょう。

では逆にこの橋が『偽物』と感じられる時はどのような時か?
例えば、日本橋川が埋め立てられてしまったとしたら?
周辺にある京橋などは、無惨にも大正期の橋の欄干の遺構を残し姿を消しました。その欄干だけ見ても、「そこに橋がある」とは思えません。

そこまでいかなくても。日本橋川が埋め立てられ、コンクリートの道路の上に架かっていたとしたら、日本橋のアイデンティティは若干変化するように思えます。
なんだかトマソンっぽい話になってきました。

またしても『本物』か『偽物』のややこしさが増しました。

特 にこの橋にとって頭上にかかる首都高は歴史を継承していく時に、負の要素として捉えるのか、もしくは肯定的な要素として捉えるといった視点があるのか?も ちろんない方が景観は良いでしょう。ですがほんの数十年前にはそれを良しとしていた人々が大勢いたわけで、その人たちにとって、首都高のある景観は心地よ いものだったかもしれません。そのムーブメントのようなものはどう解釈するのでしょうか?

惑星ソラリス(初代)で日本の首都高が未来の風景として長まわしで映されるシーンがありました。悪評も高いですが見方によってはサイバーパンクっぽくも見えますよね。

 

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『知りすぎて何も言えなくなる』

 

同質な物は同じか?

『コミットメントの一貫性』

世の中はなんらかの契約によって、成り立ってます。
日本国民なので職業選択の自由があります。そして同時に国民であれば、納税の義務を果たすという約束事もあります。

「そんなの聞いてません!」


なんて言ってみても、先天的に生まれるか生まれないかを本人が決めることは出来ませんのでしかたないです。世の中の全ての事が自分の判断を必要としている訳ではありませんしね。
以前知り合いから借りた、加藤秀一著『〈個〉からはじめる生命論』に「生まれない権利」
といったものが載っていました。
自分が「生まれなかった方が良い」という権利を裁判で認める事が出来るかといった話だったと思います。生まれなかった自分を誰も証明できない。という問題をはらんでいたりして難しくて話半分も理解できませんでした。

話を戻します。
ここでの原則は義務をはたしている人と権利を行使している人は前提として同じ人でないと話になりません。

昨日の自分と今日の自分が違う人では約束なんてしようがありません。

この約束事を守るという事が近代以降の人間の持つべき、規範になっていたりするんでしょう。

ですが人間は成長してしまします。とても一貫性ばかりを前提にしてはいられません。
意 見は変わります。ですからそこらへんがかなりあやしい「子ども」は制度上「小さな大人」とは違う、「子ども」にしておかないと、やっかいです。政治的な問 題と、個人的な問題の境目を政治側が決めているように、大人と子どもの線引きもかなり大人達によって恣意的に出来ています。

約束事を守れたら君も大人の仲間入りだね!!

何 かを知りたい!という好奇心や欲求から勉強した結果。考えが成熟していくことは一向にかまわないのですが、その結果「知りすぎて何も言えなくなる。」とい う状態になることがあるような気がします。「知りすぎて何も描けなくなる」って感じで書くと絵描きの問題になってきます。
何かを学習した結果、同質だったものが、違うように見えてくる。といった感じしょうか。

老成すると言うんでしょうか?
自身のワガママを自身で許容できなくなるというんでしょうか?
知ってしまった罪悪感からか過去の自分に対する、恥ずかしさなども伴ったりします。
ですがそこで止まってしまうという事が自身の成長を逆に止めてしまっているような錯覚にもおそわれます。(←この感覚自体が近現代的な視点かもしれませんが。)
ですので、知らなかった自分と知った自分は別人だと思いたいものです。コミットメントを重視しすぎると、なかなかに生きづらいというようなことが見えてきます。

そこで私は思い切ってこう解釈します。
『知りすぎて何も言えなくなる』といった知的欲求や好奇心の推進力が低下した状態はおそらく、その分野の修得を終えた事を意味していると捉えるとよいのではないでしょうか?
(その分野が)持っている歴史的な縦軸ではなく、個人個人が持っているパーソナルな好奇心や欲求に見合った勉強を修得したってことです。もちろんその分野に対してそれ以上の欲求を持ち続けた人はもっと深いアプローチをしていきます。)

推進力が低下した状態でいつまでも、その分野にこだわり続けるのは、〈個〉を求めるあまり、どこからかの『コミットメントの一貫性を求めるバイアス』がかかっている状態なのかも知れないと思います。

生まれたての状態や成熟した状態を同質なものとして維持し続ける事は出来ません。
にも関わらず、一貫性ばかりを命題にしてしまうと結構生きづらくなるような気がします。

そんなこんなで絶えず、フレキシブルに考えていけばいいじゃん!と思うのですが、人間の本能がさせるのか、だいたいの場合そう簡単にはいきません。

なんだか抜けのわるい話になってきました。

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『いづれにしても存在はしません』その3

欠損していくオリジナルについて世界ではどのような例があるのかを考えてみます。

私の中でまず初めにあがるのがドイツのドレスデンにある聖母教会です。
歌舞伎座などと同じく第二次大戦(1945)で聖母教会は倒壊しました。
そして2005年に再建されました。

1945年に倒壊した教会の石材は当時から保管され、2005年の復元時には真新しい石材と共に空襲で焼けた黒い石材は教会の壁面にしっかりとモザイク状にはまっています。

キーポイントは1945〜2005年の完成までの60年間は現地に完成型の聖母教会は無かったという事。(ただし、一部遺構は残っていたようです。)


組みかわってしまった石材を指してその教会は以前の物ではない。という印象を受けるでしょうか?

あまりそういった印象は受けません。

何故か?

以前の遺構と石材を利用しているからか?
バロック建築の堂々とした佇まいがそう思わせるのか?
宗教的なモニュメントだという事がそう思わせるのか?
60年間再建しようとしてきた人間の感情のダイナミズムがそう思わせるのか?

『本物』か『本物でないか』はそんな主観的な判断では答えが出そうにはありあません。

終戦後日本でも再建されたものはたくさんあります。
明治神宮や各地の天守閣などが再建されました。
天守閣は当時の建築基準法の影響でしょうか、コンクリートで建てられました。(天守に関しては再建というより復興天守でしょうか。)ちなみに名古屋城は最近になり木造で再建しようという動きもあります。

ではここでもう一つパラドックスを提示してみます。
『砂山のパラドックス』です。

砂山から一粒づつ砂粒を取り去っていく、1粒目を取り去ってもおそらく砂山は砂山のままですが、最後に残った一粒も砂山といえるか?といったパラドックスです。

これは、定義の曖昧な言葉(砂山がそれにあたる)に由来するパラドックスです。
つまり、建造物や美術品における『本物』という言葉が何をさしているかを明確にしない限り答えはでませんよ!っといった感じに置き換えられます

ここでさらに見方を一つ増やしてみます。
『聖母教会』や『明治神宮』はあくまで信仰の対象としてあります。
神様がいるのか、いないか、あそこにいるのは本物の神様か?と言った問題は、認識の対象ではなく信仰の対象です。つまり信じるかどうかです。その教会は以前あった教会と同じものかどうかは、あくまで信仰心の問題なのかもしれません。

そのものが『本物』かどうか同一かどうかという問題自体が
『コミットメントの一貫性』を強要するような、近代の抱えたジレンマのようにも感じられてきました。(今問題がすり替わりました。)

以前、近隣のお寺や神社をフィールドワークしていた事がありました。
ス ケッチをし、古そうな鐘楼や山門の年代などを住職や神主さんに尋ねるとほとんどの場合、寺や神社の創建された年代を教えてくれます。私が聞いていたのは、 目の前にある山門の建立された年代だったのですが、それを聞き返すと大抵の場合分からないと言った答えが返ってきます。

当時は気づきませんでしたが、ここにある『ズレ』のようなものが、まさに『本物』かどうかの物差しがずれている事を指していたように思えます。
住職が言われていた創建年代は、まさに『ゲニウスロキ』のような土地に根ざした、正当性のようなものだったでしょう。私は目の前にある。山門の『アウラ』はいつから発せられていたものか?を問うていたつもりでした。

近、現代って病んでるね!めでたし めでたし

‥て感じでは終わりません。

今のはあくまで『本物』の見方を少し変えただけです。

上記した話と物体としてのアイデンティティを考えた上で、
以下の方法で検証してみてはどうでしょうか?

①どんなに加筆や修理をしても法隆寺や非母観音が造られたり、描かれたりした意義は変わらない。例えそれらを構成する要素が変わったとしても法隆寺が建立された目的や
非母観音が描かれた動機には影響しない。よってそれは同じものだ。

②どんなに、修復や修理をしても前提となる設計者が描いたマッスや構図が変わらなければ同じものといえる。

難しい所です。

やはり、本物であるという証明は主観的な判断でしか証明できないようなものでしょうか。
すくいそびれた要素がたくさんあり、やっぱりうまく解決できません。
そもそも同質なものに宿るアイデンティティは同じものだという前提さえ怪しくなってきます。

どなたか詳しい方教えてください。

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『いづれにしても存在はしません』その2

 

 

目の前におじいちゃんから受け継いだ古い斧があります。
柄は4回交換し、刃は3回交換した。どうみても新品同様です。

目の前の斧は『おじいちゃんの古い斧』としてのアイデンティティを持っているのか?

ファザード保存についても同じような問題がおこりそうです。


例えば、新築同然の4代目の歌舞伎座に時系列的な断面が生じないように。3代目の歌舞伎座の一部(瓦や懸魚(げぎょ)など)、が移植されたら。もうそれは『おじいちゃんの古い斧』と同様。なんら変わらない以前の歌舞伎座ってことでしょうか?

この問題はコンクリで出来た歌舞伎座だけでなく、木造建築にも例えられるように思えます。

例えば、世界最古の木造建造物の法隆寺が300年に一度、大規模修理を行い、そのたびに全ての木材を20%づつ入れ替えたとしたら?最短1500年で全て部材が入れ替わります。

ちなみに木材は100年で平均3mm風化するという話もあります。
1500 年で単純計算すると、4.5㎝です。4.5㎝が及ぼす、建築への影響を私は知りません。文化材保護法の中に書かれているかどうかは知りませんが、国宝や重 文の木造建築は木材の6割は以前から使われていたものを使用しなければならないというような話も読んだ覚えがあります。
いづれにしろ交換は必要になります。

その時に『おじいちゃんの古いの斧』と同じアイデンティティの問題にたたされるわけです。

では絵画はどうか。
先に例にあげた狩野芳崖作『非母観音』で考えてみます。
絹本は紙(和紙)に比べてみても耐久性がありません。絹の劣化とともに絵具の剥離や経年変化を起こします。その際に修復を行い、絹を補ったり、筆を入れていきます。そして年月を経ていくとオリジナルの部分が存在しなくなるといったことが考えられる。

ちなみにこちらも『ロックの靴下』というパラドックスと似てます。

私たちはオリジナルを欠損したそれらを見ても本物だと考えるでしょうか。
それらが本物だと思うのは文書や口伝に伝えられてきたからでしょうか。

それだけではこの問題は解決できないような気がします。

つづく

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『いづれにしても存在はしません』

歌舞伎座の再建案はいくつかの批判を受け、以前の形態をより強く継承したような完成予想図がサイトに出ていました。

ファザード保存(レプリカか?)の是非については、意見が分かれるところですが、ひとまず外側の枠だけは継承されるようです。

以前,知り合いから聞いた話ですが、歌舞伎座の対面には木挽町狩野派のお屋敷があったそうです。そのデザインを継承するような形で現歌舞伎座があるのでしょうか。明治期に建っていた二代前の歌舞伎座は疑洋風の建物だったので、狩野派のお屋敷が先に建っていたのかな‥。

 

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現在の歌舞伎座は鉄骨鉄筋コンクリート造ですが、一代前の建物は木造でした。外観も今の歌舞伎座とよく似たものです。どの時代まで狩野派のお屋敷があったかは分かりませんが、一代前の歌舞伎座とは対をなすような対称的な風景があったのでしょうか?

実は再建案のパースにも描かれていませんが、歌舞伎座には大きな屋根がついていました。

現 在の建物を設計した岡田信一郎曰く、安土桃山風を加味した近代和風だそうですが、以前の建物に比べ、どの部分に岡田が創意をこらしたか、どのようなマッス を思い描いていたかは、旧琵琶湖ホテルなどを見てみると少し伝わってきます。どちらにも桃山風のスケール感といったものが感じられます。私はずいぶん岡田 信一郎の建物を見てきましたが、岡田氏の建物は建物の内側からこんもりと外側に盛り上がってくるような印象があり、どの建物も共通して全体的にふっくらと した立体感があるように思います。ちなみに旧琵琶湖ホテルには、歌舞伎座でいう大屋根にあたる部位は元々ありません。

歌舞伎座の大屋根は太平洋戦争時に消失してしまいましたが、その後の補修などで、現在の形になりました。太平洋戦争や関東大震災で屋根を落とした建物はたくさんあります。
歌舞伎座周辺でも東京駅(今まさに屋根を復元中)や法務省(94年に復元)その隣にあった大審院(屋根は復元されずその後解体)などたくさんありました。

民間の建物と官の建物という違いはありますが、建物のアイデンティティは駆体にやどるのか?屋根に宿るのか?と、ふと素朴な疑問を感じます。

関東大震災以後から終戦までのごく限られた時期に日本では、帝冠式と呼ばれる様式が生まれました。帝冠式の建物は西洋的な駆体に日本風の屋根を付けたものです。
国粋主義的な気運の高まりからの発想で、日本の建造物は屋根形状に強くアイデンティティが宿っていたと感じていたように思えます。

屋 根は直さなくても良い。現実的には、木造建築でないのだから別に入母屋造(風)であろうが、切妻造(風)であろうが、コンクリなので、安価な対応策はある でしょう。当時の人々は歌舞伎座の歌舞伎座たる様相を現在の左右にのっている入母屋破風だけで事足りていると感じていたのかもしれません。(金銭的な問題 が主か?)

‥いや別の視点もある、『ゲニウス・ロキ』なる言葉があります。日本語でいうと『地霊』になるそうです。その土地のもっている固有のアイデンティティというか、土地柄というか雰囲気のようなものですかね。

つ まりはある一時期あの場所では、狩野派のお屋敷が対をなして建っていたかもしれないし、その後に戦争も経験しました。結果、歌舞伎座は大屋根を失い、その 他の建物も同様に屋根を失ったり、全壊したりしました。大屋根を失ったという事自体が、不可逆性の歴史観を継承し、体現しているとはいえないだろうか?
そういった意味で大屋根を失った状態の歌舞伎座は存在意義を獲得している。

だから新しい歌舞伎座にも大屋根が無い方が正当性があるじゃん!

‥待てよ、そうなるとファザード保存に、『アウラ』が存在するのかと言ったことも考えておかないといけない。そもそも建物は新しくなっちゃうんだから‥。ただ建造物の『アウラ』を無条件に肯定すると、古さのみが礼賛されることになりそうだ。

『ゲニウス・ロキ』はレプリカの建造物も包含してくれそうだ。
何故かといえば建物自体ではなく、土地にアイデンティティを求めているからだ。だがそこに建つレプリカの建造物にはオリジナルの持っていた『アウラ』は宿らない。

その土地もしくは建物のアイデンティティを継承していく時にあの大屋根はいるのか?いらないのか?単に歌舞伎座の後方に建つ予定のビルとの食い合わせが悪いのか?

そういったことがなんとなく気になりました。

ちなみに設計の岡田信一郎は明治の末から東京芸大で教鞭をとっていたようですし、狩野派関係の人とのつながりも、あったのかもしれません。狩野芳崖や橋本雅邦は年代的に微妙ですが、もしくは木挽町のお屋敷を現地で実際に目にした事があったのかも知れませんね。

みんなの生きていた時代 『ウィキペ調べ』

岡田信一郎  1883—1932(1907年〜東京芸大学校講師)
橋本雅邦   1835—1908(1898年 東京芸大辞職)
狩野芳崖   1828—1888
『複製技術時代の芸術』1935
ベンヤミン  1892—1940
歌舞伎座
第1期 疑洋風  ? —1911
第2期 木造 1911—1921
第3期 鉄筋鉄骨コンクリ1925—2010

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『かの死について』その2

せっかくのなのでもう少し、かの死について書いてみたいと思う。

要するに【非母観音】は日本美術においてある種の到達点ではあったが
その後の大きなブレイクスルーとしては、機能しなかったのに対し、
そのオリジナルにちかい、【サッフォーの死】というかモローは
様式亡き後の絵画として象徴主義や世紀末絵画を用意した。

【狩野芳崖】を西洋美術史の中に当てはめれば、印象派や象徴主義や
アールヌーヴォーの直前、まさに近代の目覚める前夜あたりに存在した
ような気がする。


何故かといえば狩野芳崖の作品は選択折衷表現の中にあるように思えるからだ。
日本にある旧来の技法を用い、西洋的な表現を加味する。
つまりは、ある時代のものとある様式をくっつけてみたら面白くない?
っといった感じである。そうした『いいとこ取り』の折衷表現といえる。

ヨーロッパにも良く似た傾向はあった。
西洋建築史の中で19世紀は新しい様式を生まなかったという指摘がある。
新古典主義以後、歴史主義やグリークリヴァイヴァル、ゴシックリヴァイヴァル、
ネオゴシック、ネオバロックなど、要はリヴァイヴァルや折衷表現に終始した。
もう新たなものが出なかったのかもしれない。その後のブレイクスルーとしての
産業革命を通し、アールヌーヴォーの登場を皮切りに爆発的にモダニズムへと
傾斜していく。

ただこのような流れをそのまま日本に当てはめることは出来ない。
日本の明治維新は産業革命にくらべ緩やかなものだったかどうかは
分からないけれど、それ以前に日本には無かった価値観が相当数流れ
込んだのに対し、ヨーロッパでは、自力で開発したといえる。
つまり考えてもいなかったものが突然現れたのに対し、必死で考えて
発明したといったちがいだろうか?

【非母観音】登場以後、亜流に沈んだ多くの表現はまさに日本流の過渡期
をよく表現しているとはいえないだろうか?

キリスト教的な価値観だけでは維持できなくなっていくヨーロッパとは対照的に、
『新たな神様』や日本絵画の統合のシンボルをヨーロッパの『衰退する神』に
見いだしたのは、皮肉なことのように思える。

以後の日本は多くの分野で西洋化が進んでいく中。上記した日本画においての
まさに『神様的』表現は確たる核を持たないまま、維持され、その象徴性だけが残り、
その時代時代に、富士山だったり、シルクロードだったり、岩絵の具だったりに依拠
を求めてきたのではないだろうか?

何か違うと誰もが首を捻るが、もともと持たない首を探さなければいけないような
幻想を抱き、探し続けるハメになる事をこの当時まだ誰も知る由もなかったのであった‥。

っていう感じで日本画問題へ集約してみました。
なんか乱暴なまとめになってしまいました。

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かの死について

 

前から好きな絵描きとして狩野芳崖を上げるとときに付きまとう
気恥ずかしさは何なのかなあ?とよく思っていた。

率直に言ってしまえば、狩野芳崖氏のあまりにも直球勝負
すぎる表現から来るものだと思う。

木挽町狩野家の二神足と歌われる氏の表現はひとえの『根性』にある。

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若い頃の作品は描画に対するその必要な姿勢からしばしば不格好な印象さえ与える。
そして年を取れば取るほど『根性』に拍車がかかり、遺作の【悲母観音】
はいつの間にやら日本画の記念碑的な作品として扱われることが多い。

自身のピークを遺作にまで引っ張ることのできる作家がどれほどいるのだろうか?
その一点においてさえ氏の『根性』には頭が下がる。
そんなこんなで氏の悲母観音についてちょっと考えてみた。
構図や色彩においては、フェノロサの影が色濃く感じられる。

では狩野芳崖自身の感覚はどこに生きていたのだろうか?
そこで出てくるのが上記したモロー作【サッフォーの死】である。
狩野芳崖自身このモローなる画家の作品集なりなんなりをおそらく
フェノロサから見せてもらって、自身の持つ描写への必要な
『こだわり』の依拠を探り当てたかもしれない。
今まで見た事の無いものを見たときの素直な視線を
氏は文字通り素直に表現してみせた。

狩野芳崖は宗教家や思想家として仏画に取り組んだというよりも、
その当時まだ新しい概念としての『日本画』の確立を志していた。
宗教心よりも芸術への眼差しの方が強かったように感じられる。
というような指摘が佐藤道信先生の著書【〈日本美術〉誕生】
の中でもふれられていたような気がする。

ここで話をさらに興味本位から拡大してみようと思う。

間違いなく同じ時代に生きていた二人の画家が何を思い
この二枚の作品を描いたかを思ってみる。
サッフォーは紀元前6〜7世紀に実在した女性詩人。
画中では恋愛のもつれから崖から身を投げている真っ最中です。
投身自殺中です。

モローは産業革命以後の世界を生きています。
アカデミズムから距離をとったモローは作品の中で神話や宗教画の伝統を
個人の物語として置き換えた。その感覚はまさにニーチェよろしく
『神は死んだ』以後の世界を生きていく予定を物語っているようにも
見えます、、、たぶん。
モローはその後の世紀末美術にも大きく影響を与えたそうです。

そんなこんなでモロー作品には、19世紀のヨーロッパに流れている
厭世的なムードが漂っています。
そんな刹那的な表現を狩野芳崖氏は当時の日本に流れていたであろう、
明治維新、文明開花といった真逆の地点から【サッフォーの死】を
観たのかもしれません。
それくらい真逆の解釈をしているように私には見えます、、、いやむしろ
当時ヨーロッパの底辺に流れている退廃的なムードなんか
ちっとも分かってなんかいなかったと思う。

19世紀以後、天皇という(ある種の神様)君主制を敷き、
欧化政策をとり、文化とは?絵画とは?と勢いづく日本の中
で描かれた【非母観音】。
一方それに影響を与えた、同じく19世紀産業革命後の反サロン、
アカデミズムの退廃的な絵画【サッフォーの死】。

平易な言い方をすればサッフォーは落下する『神の死』
もしくは『神の失墜』が描かれているように見える。
それを見た極東の国の絵師は仏様の姿(注1)を借りてはいるが
非母観音は雲に乗り飛翔する『神の再臨』として描いているように見えてくる。
【観音下図】でも明確に描かれている背中の羽が両者の解読に決定的な
食い違いをもたらしているようには見えないでしょうか?

この食い違いは非母観音を見るたびに、技術的な到達点としての
【非母観音】と日本美術史の上での【非母観音】を理解する上で
私は何かややこしい綾を感じてしまいます。

日本絵画の諸派を日本画へと統合するといった理想を画面へと押し込めた、
修行の成果としての問題とは別にこの大いなる食い違いがその後日本画に
及ぼした影響はとても大きいように思える。

西洋人にとっても浮世絵や伊藤若冲の作品にオリエンタリズムを感じ
取ったのと同じようには【非母観音】を理解しなかったのではないでしょうか?
この何か釈然としない感じは日本画家と名のる私にとっても
何か入り口の地点でちょっと間違ってない?
といった感覚を抱かずにはいられない。

その作品が現れた後では全てのものが古いものになってしまうような
エポックメイキングな作品がある。
非母観音も当時多くの亜流を生み出したが、現在に渡りその新たな
チャレンジはそれ以前の全てを古くしたような感覚はない。
むしろ【非母観音】はそれ以前のフォーマットをよく踏襲している。
秀作のような傑作ではないだろうか?と思ってしまう。

いろいろ書いてみたけど、基本思いつきです。
本当のとろろ 【サッフォーの死】という作品を見つけたときに
感じたインスピレーションで書いてみました。
二枚の作品の因果関係を詳しく知っている方教えてください。

余談ですが、以前観た『長州ファイブ』という映画の中で,イギリスに密航した
伊藤博文と山尾 庸三が、現地の娼婦と耳の聞こえない労働者の女性にイギリスの
ような文明国になりたいと言った趣旨のことを述べると
「ここが文明国ですって‥」
と言って女性が悲観する場面がありましたが、そのチグハグな会話にも似てる
ような気がしました。ちなみに山尾 庸三は工部美術学校の創設者です。

みんなの生きていた時代

狩野 芳崖       1828—1888
ギュスターヴ・モロー 1826−1898
山尾 庸三       1837−1917
神仏分離例      1868
『ツァラトゥストラはかく語りき』
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ1885

(注1)もちろん明治ですので、廃仏毀釈(1868—1870)
などがありますから、結構無茶を書いてますよ。本地垂迹説なんかもあるしね。