四宮義俊 / SHINOMIYA YOSHITOSHI

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『知りすぎて何も言えなくなる』

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同質な物は同じか?

『コミットメントの一貫性』

世の中はなんらかの契約によって、成り立ってます。
日本国民なので職業選択の自由があります。そして同時に国民であれば、納税の義務を果たすという約束事もあります。

「そんなの聞いてません!」


なんて言ってみても、先天的に生まれるか生まれないかを本人が決めることは出来ませんのでしかたないです。世の中の全ての事が自分の判断を必要としている訳ではありませんしね。
以前知り合いから借りた、加藤秀一著『〈個〉からはじめる生命論』に「生まれない権利」
といったものが載っていました。
自分が「生まれなかった方が良い」という権利を裁判で認める事が出来るかといった話だったと思います。生まれなかった自分を誰も証明できない。という問題をはらんでいたりして難しくて話半分も理解できませんでした。

話を戻します。
ここでの原則は義務をはたしている人と権利を行使している人は前提として同じ人でないと話になりません。

昨日の自分と今日の自分が違う人では約束なんてしようがありません。

この約束事を守るという事が近代以降の人間の持つべき、規範になっていたりするんでしょう。

ですが人間は成長してしまします。とても一貫性ばかりを前提にしてはいられません。
意 見は変わります。ですからそこらへんがかなりあやしい「子ども」は制度上「小さな大人」とは違う、「子ども」にしておかないと、やっかいです。政治的な問 題と、個人的な問題の境目を政治側が決めているように、大人と子どもの線引きもかなり大人達によって恣意的に出来ています。

約束事を守れたら君も大人の仲間入りだね!!

何 かを知りたい!という好奇心や欲求から勉強した結果。考えが成熟していくことは一向にかまわないのですが、その結果「知りすぎて何も言えなくなる。」とい う状態になることがあるような気がします。「知りすぎて何も描けなくなる」って感じで書くと絵描きの問題になってきます。
何かを学習した結果、同質だったものが、違うように見えてくる。といった感じしょうか。

老成すると言うんでしょうか?
自身のワガママを自身で許容できなくなるというんでしょうか?
知ってしまった罪悪感からか過去の自分に対する、恥ずかしさなども伴ったりします。
ですがそこで止まってしまうという事が自身の成長を逆に止めてしまっているような錯覚にもおそわれます。(←この感覚自体が近現代的な視点かもしれませんが。)
ですので、知らなかった自分と知った自分は別人だと思いたいものです。コミットメントを重視しすぎると、なかなかに生きづらいというようなことが見えてきます。

そこで私は思い切ってこう解釈します。
『知りすぎて何も言えなくなる』といった知的欲求や好奇心の推進力が低下した状態はおそらく、その分野の修得を終えた事を意味していると捉えるとよいのではないでしょうか?
(その分野が)持っている歴史的な縦軸ではなく、個人個人が持っているパーソナルな好奇心や欲求に見合った勉強を修得したってことです。もちろんその分野に対してそれ以上の欲求を持ち続けた人はもっと深いアプローチをしていきます。)

推進力が低下した状態でいつまでも、その分野にこだわり続けるのは、〈個〉を求めるあまり、どこからかの『コミットメントの一貫性を求めるバイアス』がかかっている状態なのかも知れないと思います。

生まれたての状態や成熟した状態を同質なものとして維持し続ける事は出来ません。
にも関わらず、一貫性ばかりを命題にしてしまうと結構生きづらくなるような気がします。

そんなこんなで絶えず、フレキシブルに考えていけばいいじゃん!と思うのですが、人間の本能がさせるのか、だいたいの場合そう簡単にはいきません。

なんだか抜けのわるい話になってきました。

四宮義俊公式サイト
http://shinomiya.main.jp

 

 

 

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