四宮義俊 / SHINOMIYA YOSHITOSHI

四宮義俊に関する情報をお知らせ致します。


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個展のお知らせ「ソッキ」四宮義俊の新しい夜明け■2015年2月16日(月)〜21日

四宮義俊個展

「ソッキ」〜四宮義俊の新しい夜明け〜

来月2月16日(月)〜21日(土)まで東京、京橋のアートスペース羅針盤さんで個展を行います。チラシ等も出来上がってきましたので、告知させていただきます。お時間ございましたら何卒よろしくお願い致します。今回の個展では狩野芳崖の「仁王捉鬼図/におうそっきず」をオマージュした新シリーズ「ソッキ」を5点と冬物の植物をメインとした掛軸を9幅展示します。是非ご高覧ください。

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アートスペース羅針盤
■2015年2月16日(月)〜21日(土)■ 開廊時間 午前11:00 – 19:00(最終日のみ17:00まで)■〒104-0031 東京都中央区京橋3-5-3 京栄ビル2F
TEL & FAX : 03-3538-0160 E-mail : info@rashin.net■ 東京メトロ銀座線京橋駅
から徒歩2分■ 都営浅草線宝町駅から徒歩2分

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『いづれにしても存在はしません』その2

 

 

目の前におじいちゃんから受け継いだ古い斧があります。
柄は4回交換し、刃は3回交換した。どうみても新品同様です。

目の前の斧は『おじいちゃんの古い斧』としてのアイデンティティを持っているのか?

ファザード保存についても同じような問題がおこりそうです。


例えば、新築同然の4代目の歌舞伎座に時系列的な断面が生じないように。3代目の歌舞伎座の一部(瓦や懸魚(げぎょ)など)、が移植されたら。もうそれは『おじいちゃんの古い斧』と同様。なんら変わらない以前の歌舞伎座ってことでしょうか?

この問題はコンクリで出来た歌舞伎座だけでなく、木造建築にも例えられるように思えます。

例えば、世界最古の木造建造物の法隆寺が300年に一度、大規模修理を行い、そのたびに全ての木材を20%づつ入れ替えたとしたら?最短1500年で全て部材が入れ替わります。

ちなみに木材は100年で平均3mm風化するという話もあります。
1500 年で単純計算すると、4.5㎝です。4.5㎝が及ぼす、建築への影響を私は知りません。文化材保護法の中に書かれているかどうかは知りませんが、国宝や重 文の木造建築は木材の6割は以前から使われていたものを使用しなければならないというような話も読んだ覚えがあります。
いづれにしろ交換は必要になります。

その時に『おじいちゃんの古いの斧』と同じアイデンティティの問題にたたされるわけです。

では絵画はどうか。
先に例にあげた狩野芳崖作『非母観音』で考えてみます。
絹本は紙(和紙)に比べてみても耐久性がありません。絹の劣化とともに絵具の剥離や経年変化を起こします。その際に修復を行い、絹を補ったり、筆を入れていきます。そして年月を経ていくとオリジナルの部分が存在しなくなるといったことが考えられる。

ちなみにこちらも『ロックの靴下』というパラドックスと似てます。

私たちはオリジナルを欠損したそれらを見ても本物だと考えるでしょうか。
それらが本物だと思うのは文書や口伝に伝えられてきたからでしょうか。

それだけではこの問題は解決できないような気がします。

つづく

四宮義俊公式サイト
http://shinomiya.main.jp

 

 

 


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『いづれにしても存在はしません』

歌舞伎座の再建案はいくつかの批判を受け、以前の形態をより強く継承したような完成予想図がサイトに出ていました。

ファザード保存(レプリカか?)の是非については、意見が分かれるところですが、ひとまず外側の枠だけは継承されるようです。

以前,知り合いから聞いた話ですが、歌舞伎座の対面には木挽町狩野派のお屋敷があったそうです。そのデザインを継承するような形で現歌舞伎座があるのでしょうか。明治期に建っていた二代前の歌舞伎座は疑洋風の建物だったので、狩野派のお屋敷が先に建っていたのかな‥。

 

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現在の歌舞伎座は鉄骨鉄筋コンクリート造ですが、一代前の建物は木造でした。外観も今の歌舞伎座とよく似たものです。どの時代まで狩野派のお屋敷があったかは分かりませんが、一代前の歌舞伎座とは対をなすような対称的な風景があったのでしょうか?

実は再建案のパースにも描かれていませんが、歌舞伎座には大きな屋根がついていました。

現 在の建物を設計した岡田信一郎曰く、安土桃山風を加味した近代和風だそうですが、以前の建物に比べ、どの部分に岡田が創意をこらしたか、どのようなマッス を思い描いていたかは、旧琵琶湖ホテルなどを見てみると少し伝わってきます。どちらにも桃山風のスケール感といったものが感じられます。私はずいぶん岡田 信一郎の建物を見てきましたが、岡田氏の建物は建物の内側からこんもりと外側に盛り上がってくるような印象があり、どの建物も共通して全体的にふっくらと した立体感があるように思います。ちなみに旧琵琶湖ホテルには、歌舞伎座でいう大屋根にあたる部位は元々ありません。

歌舞伎座の大屋根は太平洋戦争時に消失してしまいましたが、その後の補修などで、現在の形になりました。太平洋戦争や関東大震災で屋根を落とした建物はたくさんあります。
歌舞伎座周辺でも東京駅(今まさに屋根を復元中)や法務省(94年に復元)その隣にあった大審院(屋根は復元されずその後解体)などたくさんありました。

民間の建物と官の建物という違いはありますが、建物のアイデンティティは駆体にやどるのか?屋根に宿るのか?と、ふと素朴な疑問を感じます。

関東大震災以後から終戦までのごく限られた時期に日本では、帝冠式と呼ばれる様式が生まれました。帝冠式の建物は西洋的な駆体に日本風の屋根を付けたものです。
国粋主義的な気運の高まりからの発想で、日本の建造物は屋根形状に強くアイデンティティが宿っていたと感じていたように思えます。

屋 根は直さなくても良い。現実的には、木造建築でないのだから別に入母屋造(風)であろうが、切妻造(風)であろうが、コンクリなので、安価な対応策はある でしょう。当時の人々は歌舞伎座の歌舞伎座たる様相を現在の左右にのっている入母屋破風だけで事足りていると感じていたのかもしれません。(金銭的な問題 が主か?)

‥いや別の視点もある、『ゲニウス・ロキ』なる言葉があります。日本語でいうと『地霊』になるそうです。その土地のもっている固有のアイデンティティというか、土地柄というか雰囲気のようなものですかね。

つ まりはある一時期あの場所では、狩野派のお屋敷が対をなして建っていたかもしれないし、その後に戦争も経験しました。結果、歌舞伎座は大屋根を失い、その 他の建物も同様に屋根を失ったり、全壊したりしました。大屋根を失ったという事自体が、不可逆性の歴史観を継承し、体現しているとはいえないだろうか?
そういった意味で大屋根を失った状態の歌舞伎座は存在意義を獲得している。

だから新しい歌舞伎座にも大屋根が無い方が正当性があるじゃん!

‥待てよ、そうなるとファザード保存に、『アウラ』が存在するのかと言ったことも考えておかないといけない。そもそも建物は新しくなっちゃうんだから‥。ただ建造物の『アウラ』を無条件に肯定すると、古さのみが礼賛されることになりそうだ。

『ゲニウス・ロキ』はレプリカの建造物も包含してくれそうだ。
何故かといえば建物自体ではなく、土地にアイデンティティを求めているからだ。だがそこに建つレプリカの建造物にはオリジナルの持っていた『アウラ』は宿らない。

その土地もしくは建物のアイデンティティを継承していく時にあの大屋根はいるのか?いらないのか?単に歌舞伎座の後方に建つ予定のビルとの食い合わせが悪いのか?

そういったことがなんとなく気になりました。

ちなみに設計の岡田信一郎は明治の末から東京芸大で教鞭をとっていたようですし、狩野派関係の人とのつながりも、あったのかもしれません。狩野芳崖や橋本雅邦は年代的に微妙ですが、もしくは木挽町のお屋敷を現地で実際に目にした事があったのかも知れませんね。

みんなの生きていた時代 『ウィキペ調べ』

岡田信一郎  1883—1932(1907年〜東京芸大学校講師)
橋本雅邦   1835—1908(1898年 東京芸大辞職)
狩野芳崖   1828—1888
『複製技術時代の芸術』1935
ベンヤミン  1892—1940
歌舞伎座
第1期 疑洋風  ? —1911
第2期 木造 1911—1921
第3期 鉄筋鉄骨コンクリ1925—2010

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『かの死について』その2

せっかくのなのでもう少し、かの死について書いてみたいと思う。

要するに【非母観音】は日本美術においてある種の到達点ではあったが
その後の大きなブレイクスルーとしては、機能しなかったのに対し、
そのオリジナルにちかい、【サッフォーの死】というかモローは
様式亡き後の絵画として象徴主義や世紀末絵画を用意した。

【狩野芳崖】を西洋美術史の中に当てはめれば、印象派や象徴主義や
アールヌーヴォーの直前、まさに近代の目覚める前夜あたりに存在した
ような気がする。


何故かといえば狩野芳崖の作品は選択折衷表現の中にあるように思えるからだ。
日本にある旧来の技法を用い、西洋的な表現を加味する。
つまりは、ある時代のものとある様式をくっつけてみたら面白くない?
っといった感じである。そうした『いいとこ取り』の折衷表現といえる。

ヨーロッパにも良く似た傾向はあった。
西洋建築史の中で19世紀は新しい様式を生まなかったという指摘がある。
新古典主義以後、歴史主義やグリークリヴァイヴァル、ゴシックリヴァイヴァル、
ネオゴシック、ネオバロックなど、要はリヴァイヴァルや折衷表現に終始した。
もう新たなものが出なかったのかもしれない。その後のブレイクスルーとしての
産業革命を通し、アールヌーヴォーの登場を皮切りに爆発的にモダニズムへと
傾斜していく。

ただこのような流れをそのまま日本に当てはめることは出来ない。
日本の明治維新は産業革命にくらべ緩やかなものだったかどうかは
分からないけれど、それ以前に日本には無かった価値観が相当数流れ
込んだのに対し、ヨーロッパでは、自力で開発したといえる。
つまり考えてもいなかったものが突然現れたのに対し、必死で考えて
発明したといったちがいだろうか?

【非母観音】登場以後、亜流に沈んだ多くの表現はまさに日本流の過渡期
をよく表現しているとはいえないだろうか?

キリスト教的な価値観だけでは維持できなくなっていくヨーロッパとは対照的に、
『新たな神様』や日本絵画の統合のシンボルをヨーロッパの『衰退する神』に
見いだしたのは、皮肉なことのように思える。

以後の日本は多くの分野で西洋化が進んでいく中。上記した日本画においての
まさに『神様的』表現は確たる核を持たないまま、維持され、その象徴性だけが残り、
その時代時代に、富士山だったり、シルクロードだったり、岩絵の具だったりに依拠
を求めてきたのではないだろうか?

何か違うと誰もが首を捻るが、もともと持たない首を探さなければいけないような
幻想を抱き、探し続けるハメになる事をこの当時まだ誰も知る由もなかったのであった‥。

っていう感じで日本画問題へ集約してみました。
なんか乱暴なまとめになってしまいました。

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